大判例

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名古屋地方裁判所 昭和26年(わ)1798号 判決 1964年3月30日

本籍 滋賀県甲賀郡佐山村大字隠岐二千百九十五番地

住居 名古屋市南区大同町二丁目十九番地

合成樹脂加工業 隠岐尚一

三十三歳(昭和五年十月二十九日生)

本籍並びに住居

愛知県西春日井郡西枇杷島町旭町二丁目四十六番地

会社重役 加藤正一

四十八歳(大正五年二月八日生)

本籍 名古屋市南区堤町三丁目二十八番地

住居 兵庫県西宮市平木町七十九番地睦ハウス十三号室

職業不詳 三輪晴こと 三輪晴雲

四十四歳(大正八年八月四日生)

本籍並びに住居 名古屋市西区白菊町五丁目十二番地

商工団体事務員 浅野晃盛

三十五歳(昭和四年一月十六日生)

本籍並びに住居 東京都板橋区徳丸町百二十六番地

大学助手 水谷謙治

二十九歳(昭和九年四月四日生)

右被告人隠岐尚一、同加藤正一及び同三輪晴雲に対する各名誉毀損被告事件、被告人浅野晃盛及び同水谷謙治に対する各脅迫被告事件につき、当裁判所は、検察官小山利男出席の上、審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人隠岐尚一、同加藤正一、同三輪晴雲及び同水谷謙治を各懲役四月に処する。

右各被告人に対し、本裁判確定の日から一年間刑の執行を猶予する。

訴訟費用中、証人井戸田一二、同加賀治康、同藤尾君代、同掛川健作、同大橋庄一、同田中守、同森子、同石黒ちゑ子、同松井源吾、同幸村高司、同松永たつの、同本田春男及び同林成男に支給した分は被告人三輪晴雲の、証人伊藤忍、同広田輝一及び同近藤信雄に支給した分は被告人加藤正一の、証人森崎治雄、同藤井清、同岸田寿夫、同近修二、同小島鋗二、同水野奈良秋及び同福田武二郎に支給した分は被告人隠岐尚一の、証人平田忠世及び同兵藤栄蔵に支給した分の二分一は被告人水谷謙治の、証人長尾信、同長尾きせ、同高橋晴雄、同佐藤一及び同本田昇に支給した分の各五分の一は夫々被告人隠岐尚一、同加藤正一、同三輪晴雲及び同水谷謙治の、証人水野勇及び同渡辺虎雄に支給した分の各二分の一は夫々被告人加藤正一及び同三輪晴雲の負担とする。

被告人浅野晃盛は無罪。

理由

第一、罪となる事実

銘木信外十九名に対する汽車顛覆致死等被告事件(いわゆる松川事件)につき、福島地方裁判所(裁判長裁判官長尾信、裁判官有路不二男、同田中正一は)昭和二十五年十二月六日被告人二十名全員に死刑五名を含む有罪の判決をした。

判事長尾信はその後昭和二十六年三月より名古屋高等裁判所に勤務していたが、

(一) 被告人隠岐尚一は、昭和二十六年十月三十日午前七時三十分頃から八時までの間、名古屋市南区大同町二丁目所在新大同製鋼株式会社星崎工場従業員通用門附近において、「五人の労働者を死刑にした長尾判事に抗議」と題し、「(前略)神聖なるべき裁判を外国権力に屈服してけがし、五人の労働者の命を奪つた長尾判事こそ売国奴だ(後略)」と、虚偽の事実を謄写印刷した半紙四分の一大の、同日付白水細胞名義のビラ約五百枚をその記載内容を了知の上、同工場従業員森崎治雄、同水野奈良秋、同藤井清、同近修二、同岸田寿夫等約五百名に配布して長尾信の名誉を毀損し、

(二) 被告人加藤正一は、昭和二十六年十月二十六日午前八時三十分頃から九時頃までの間、名古屋市東区長塀町一丁目所在名古屋通商産業局正面出入口附近において、「長尾判事の辞職を要求する」と題し、「恐るべきデツチ上げ松川列車テンプク事件(中略)この人殺し判決をした売国、人殺し裁判長長尾信は名古屋の裁判所に判事としているのだ。しかも鉄面皮にも平和、独立のため斗う愛国者の裁判にまたデツチ上げようと自分から進んできているのだ」と、虚偽の事実を謄写印刷した半紙四分の一大の、労救愛知県本部、愛知産別、電産統一委員会、全新聞労働組合共同名義のビラ約百枚を、その記載内容を了知の上、名古屋通商産業局職員伊藤忍、同近藤信雄、同広田輝一等約百名に配布して、長尾信の名誉を毀損し、

(三) 被告人三輪晴雲は、昭和二十六年十月二十六日午前八時三十分頃から九時頃までの間、名古屋市東区長塀町一丁目所在の名古屋通商産業局前道路北側に在る民家の中、同町二丁目井戸田一二、加賀治康、藤尾君代、松井源吾、幸村高司、松永たつの、榊原亀雄、大橋庄一、石黒ちゑ子、掛川健作方等において順次同人等に対し、「長尾判事の辞職を要求する」と題し、「恐るべきデツチ上げ松川列車テンプク事件(中略)この人殺し判決をした売国、人殺し裁判長長尾信は名古屋の裁判所に判事としているのだ。しかも鉄面皮にも平和、独立のために斗う愛国者の裁判にまたデツチ上げようと自分から進んできているのだ」、と虚偽の事実を謄写印刷した半紙四分の一大の、労救愛知県本部、愛知産別、電産統一委員会、全新聞労働組合共同名義のビラ約十枚をその記載内容を了知の上、配布して、長尾信の名誉を毀損し、

(四) 被告人水谷謙治は、昭和二十六年十月二十七日頃、名古屋市中区和泉町三丁目八番地の自宅において官製葉書一枚(証第五号)に、同市北区西志賀町六百二十五番地長尾信に宛てて「(前略)きさまだけはこのぼくらの手によつて(きさまが他人にやられたら家ぞくの一人でも)ナグリコロさずにはおかない。おれの家はきさまのすぐそばだ、若き親衛隊を作り、死には死で松川の勇かんな人達に対してむくいてやる覚悟だ、せいぜいケイカンでも家のまわりにうろつかせておけ、親えい隊一ばんの血まつりは(中略)きさまだ」と記載して、同市中村区笹島町附近の郵便ポストに投函し、その頃同人方に郵送して、長尾信に対し、その生命、身体に危害を加えるべきことを告知して脅迫した。

第二、証拠≪省略≫

第三、被告人及び弁護人の主張に対する判断

(一) 被告人隠岐尚一の司法警察員に対する供述調書は、被告人の任意の供述を記載したものではないとの主張について、

同被告人及び弁護人は、名古屋市警察本部刑事部捜査課強行犯係主任警部補福田武二郎は同被告人を取調べるに際し、同本部階下休憩室において、二日間に亘り、前後十時間近くの間に、頭髪を掴んで引張り、正座させてその膝の上を両足で踏みつけ首を絞め、胴じめをして、三回も気絶させる等同被告人に暴行を加え、或はお前らになめられてたまるか、お前なんか殺してもどうしても俺のいうことをきかす、お前を殺して俺も死んでもいい等と同被告人を脅迫した結果作成した調書であるから、任意性を欠くと主張する。

然し(1)証人福田武二郎の証言(2)同人が被告人となっている特別公務員暴行陵虐被告事件の第一、二審判決、(3)被告人隠岐尚一の司法警察員に対する前掲供述調書中の「松川事件に対する私の感想はどうかとの事ですが、私はビラの内容と同感であります。そのビラそのものは何も不当なものではないと私は信じております」、同被告人の検察官に対する同年十一月十二日付供述調書中の、「ビラに書いてある様に長尾判事が労働者に対して不当な裁判をした人であるならば、此の様に悪口を書いたビラを配られたり、又脅迫されたりするのは自分の行為に対する当然のむくいであります」、との各供述記載部分は、暴行脅迫を受けて畏怖の状態にある者の供述とは考えられないこと、(4)同被告人が本件犯行を自供した心情について、検察官に対する同月十四日付供述調書中の、「私としてはあたり前の事をしたのだから、平気だという気持で一切を話したのであります」との供述記載等を併せ考えると、被告人の福田武二郎に対する自白は任意になされたものであることを認めるに十分であり、不任意の自供ではないか、との疑をさしはさむ余地はない。

よってこの点の主張は採用できない。

(二) 被告人隠岐尚一、同加藤正一及び同三輪晴雲の名誉毀損罪に関する刑法第二百三十条ノ二第三項の主張について。

(イ) 右被告人等及び弁護人は、被告人等が配布したビラ中の、判事長尾信が外国権力に屈して神聖なるべき裁判をけがし、人殺し判決をした売国奴である旨の記載は、真実を記載したものであって、同判事は松川事件の被告人達が無実であることを知りながら有罪の裁判をしたものである。それは松川事件に関し、

(1) 公判中占領軍々人を裁判官席後方で傍聴させ、法廷外で占領軍々人に事件の報告をした。

(2) 物的証拠である手袋は事件に関係がないことを知りながら証拠に採用した。

(3) 自在スパナ、バールでは顛覆作業をできないことを知りながら可能であると判断した。

(4) 事件の成否を左右する程重大なスパナの緩解力について私かに福島保線区の助役を裁判官室に招いて面談した。

(5) 被告人等の自白調書は任意性も信用性もないことを知りながら証拠能力を認めて採用した。

(6) 弁論終結後高橋晴雄の歩行機能障害に関して病院等に照会して回答を得ながら之を秘して証拠調をせず、控訴審へも送付しなかった。

(7) 高橋晴雄のアリバイ成立を知りながらこれを認めなかつた。

(8) 弁護人が佐藤一のアリバイの立証のため、証拠調べの申請をした証拠能力があることに疑問のないバス時刻表を却下した。

(9) 昭和二十四年八月十二日には国鉄東芝間の電話連絡はなく従つて翌十三日の第一回謀議が存在しないことを知りながらその存在を認定した。

等により明らかであるから、本件被告人等の行為は刑法第二百三十条ノ第三項にいわゆる真実なることの証明ありたるときに該当する、と主張する。

被告人等が配布したビラには「長尾判事は売国、人殺し裁判長である」旨の文言があり、被告人隠岐尚一が配布したビラ中にはその外に、「外国権力に屈服し」との文言もあり、結局被告人等は、同判事が外国権力に屈服して裁判の独立を放棄し、本来松川事件の被告人達は無罪であることを知りながら、故意に死刑の判決をしたという意味のビラを配布したことに帰するから本件被告人等が刑法第二百三十条ノ二第三項の適用を受けるためには、単に判事長尾信が裁判長であつた福島地方裁判所の松川事件第一審判決が事実を誤認したことを立証するだけでは足りず、同判事が同事件の被告人達は無罪であることを知りながら故意に死刑の判決をしたことを立証し、併せて外国権力に屈服して裁判の独立を放棄したことを立証しなければならない。

この点につき当裁判所は、松川事件の裁判長であつた長尾信、被告人であつた佐藤一、本田昇、高橋晴雄を証人として尋問し、同事件の各審級の判決謄本を取寄せて調べたが、右第一審判決が事実を誤認したことは、再上告が棄却されて確定した差戻後の第二審判決により明らかであるので、先づ長尾信が外国権力に屈服して裁判の独立を放棄したかの点について考える。

証人長尾信の証言によれば、松川事件の公判廷に占領軍々人が一回裁判官席後方で傍聴したことが認められるが、その経緯は同証言によると、当時日本の統治権は連合軍司令官の権限の下に置かれていたため、占領軍から調査に来れば拒否できない状勢にあり、偶々占領軍々人が来訪して傍聴を申出たので、従来監督官の巡視の場合や部外の公職者の傍聴のとき裁判官席の後方で傍聴する慣行があると思つていたので、(曽つてそのようなことが行われたことがあつたとしても、「慣行」という程のものではなかつたと当裁判所は考えるが)これに準じて黙認したに過ぎないことが認められる。尤もこの処置が相当でなかつたことは同証言によつて認められるように、同判事が弁護人等の抗議を正当と認めて占領軍々人の退席を求めたことによつても明らかであるが、然しこのことを以て長尾信が外国権力に屈服したことの徴表であるとはなしえない。又同証言によれば、同判事が松川事件の進行状況について一、二回占領軍々人に報告したことが認められるが、一般の民、刑事々件の進行状況についても調査に来られて報告したことも認められ、松川事件だけに限つたことではないので、このことを以て同人が外国権力に屈服した証拠であると考えることもできない。

次に長尾信が、松川事件の被告人等が無罪であることを知りながら、故意に有罪の判決をしたかについて考える。(同事件第一審判決は合議部においてなされたものであるから、その一員にすぎない長尾信が判決をし、或は証拠の取捨判断をしたような表現をすることは正当ではないが、本件においては同人のことだけが問題にされているので、時としてこのような表現も已むを得ない)。

松川事件の第一審裁判所である福島地方裁判所が同事件につき、自在スパナの緩解力に関して国鉄職員を裁判官室に招いて説明を聞いたことを認めるに足る証拠はなく弁護人が佐藤一のアリバイ立証のためにバス時刻表を申請したことは認められないが、検察官が之を申請したところ却下したことは証人佐藤一の証言により認められ、その他は被告人等が主張するように、手袋を証拠に採用し、検察官が主張する自在スパナ、バールで汽車の顛覆作業が可能であると判断し、被告人等の自白調書の証拠能力を認め、被告人高橋晴雄のアリバイを認めず、昭和二十四年八月十三日の国鉄東芝間の第一回謀議の存在を認めたことは、第一審判決謄本により明らかであり、弁論終結後被告人高橋晴雄の歩行機能障害に関し病院等に照会して回答を得ながらその証拠調べをせず、記録と共に控訴審へ送付しなかつたことは証人長尾信の証言により認められる。そしてこの最後の処置が妥当でなかつたことは差戻前の第二審判決によつて指摘された通りであるし、その余の点については、結局差戻後の第二審判決によつて、第一審裁判所とは反対の認定をされ、第一審判決の判断は誤りであつたことが明らかにされたのである。然しそのことだけで直ちに本件被告人等の主張が証明されたとはいえない。それ以上に、その誤りが故意に基くものであるかについては差戻後の第二審判決の説明及び第一審より第二回の最高裁判所までの五つの判決謄本によつて、第一審より第二審、上告審、差戻し後の第二審に移るに従い証拠が膨大となり(特に後の第二審においていわゆる新証拠が多数調べられ)、白黒混線して複雑多岐に亘り、事実の認定に多大の困難を極めた難件中の難件であつたことが認められること、差戻前の第二審判決は、第一審が採用した前記証拠を含む多数の証拠により、第一審の有罪二十名中三名を無罪としただけでその余に有罪を宣告したこと、第一回の上告審は右証拠のほかいわゆる諏訪メモを取調べ、五年の歳月を費して結局原判決を破棄して差戻したが、裁判官十二名中五名は原判決維持上告棄却の意見であつたこと等に照し、第一審裁判所従つて判事長尾信が事実を誤認したということ以上に被告人等の無実を知りながら有罪の判決をしたということまでを認めることはできないのである。

なお差戻前の第二審判決が、控訴趣意の多くは、原判決は政治的権力に屈した不法の判決であると主張するが、証拠上全くその根拠を認め得ないと説明し、第一回の上告審判決中、下飯坂潤夫裁判官が、上告論旨は原審の問題の取上げ方、証拠の扱い方、判決の表現自体に悪意と詐術が包蔵されていると主張するが、原審裁判官が所論のように審理判断したというような事跡は微塵も認められないし、又同論旨が主張するように、原審裁判官が政府及び資本家のため被告人等に対し故意に証拠を不合理且不利に解釈したというようなことは記録上何らの証拠がない。と説示している(他の裁判官はこの点に触れていない)ことは参考とするに価いする。

要するに、右認定したところの弁護人及び被告人等の主張する諸事実によつては、この点に関するその主張を認めることはできず、その他にこれを認めるに足る証拠はない。当裁判所は当公廷における証人長尾信の、「事件の審理については威力とか誘惑に屈したようなことは絶対にない」、「公平に独立して良心的に処理した」との証言を信用する。

よつてこの点に関する主張は採用しない。

(ロ) 次に被告人等が配布したビラの前記記載が真実であることの証明がないとしても、被告人等は真実であると確信し、確信するについて十分の理由があつたから故意を阻却するとの主張について。

昭和三十二年以降の当公廷において、被告人等は右記載が真実であると確信する旨主張する(最高裁判所の判決によれば真実であることの証明がなければ真実であると確信しても刑責を免れることはできない)が、本件犯行当時即ち昭和二十六年十月頃その確信があつたことの証拠はない。又これを確信するについての十分の理由があつたかについては、労働者である被告人等は労働者的直感を以て松川事件の被告人等が無罪であることを知つていたと主張するけれども、そのままたやすくは首肯し難く、その他に具体的な主張はなく、証拠もない。却つて被告人加藤正一の昭和二十六年十一月十五日付検察官に対する供述調書中の、「本件前日、仕事をしていた産別会館の二階の部屋で、階下の方から明朝八時頃通産局の前へ手の空いている人は出て来てくれと呼ぶ声をきき、翌二十六日午前八時半頃だと思うが、名古屋通産局の前に行つた、局正面玄関南の向つて右の建物寄りの方に若い一人の男がビラを配つて居りました。その男からビラを持つているだけ受取りました。私は受取つたビラを見ながら出勤してくる局員に手渡しました。ビラの内容は「長尾判事の辞職を要求する」という見出しで、松川事件の不当を抗議するものでありました。私は別に深い関心は持ちませんし、ビラを書いたものでもありませんので」との記載、被告人隠岐尚一の昭和二十六年十一月十日付司法警察員に対する供述調書中の、「松川事件裁判の不当な点は何処かと聞かれても細部の事は判りませんが」との記載によれば、同被告人等には確信がなかつたことが窺い知られるのである。

よつてこの主張も理由がない。

(三) 超法規的違法阻却事由の主張について、

弁護人は行為が犯罪構成要件に該当し、法益を侵害する危険があつても、それは他の法益を防衛する目的を有し、且つ防衛される法益が侵害される法益に優越するとき、その行為の違法性を阻却する。本件において被告人等の行為が、名誉毀損罪、脅迫罪の構成要件を充足するとしても、それは司法権の独立を維持し、松川事件の被告人及び国民一般が憲法により保障されている正しい裁判を受ける権利を防衛するための裁判批判であつてこの権利は長尾信の名誉や自由より遙かに重要な法益であるから違法性は阻却され、罪とならないと主張する。

いわゆる超法規的違法阻却事由というのは、刑法所定の法令による行為、正当業務行為、正当防衛、緊急避難等の外、これらによつて保護されていない法益を保護するため刑法第三十五条後段の「正当行為」の意義を類推解釈適用して、法全体の精神に基づき、国家的に承認された社会生活の目的達成のためにその行為が相当であるか否かを判断し、相当であると認めるときに違法性阻却事由があると考えるものである。その行為が社会生活の目的達成のために相当であるか否かは、行為の目的の正当性、手段方法の相当性、保護する法益が侵害される法益より同等或はそれ以上に重要であるか、その時にその行為に出るべき緊急の必要があるか、これに代る手段を採ることが不可能若しくは著しく困難であるか等の諸条件を制限的に解釈して決定すべきであつて、裁判批判も(検察官が主張するような法律的学術的検討のみに制限されるべきものではないが)結局この原理に従わねばならない。弁護人が主張するような、法益の均衡を比較するのみでこれを決しようとする考え方は、この原理の乱用となるので当裁判所の採用しないところである。

そこで本件について考えると、司法権の独立を維持し、松川事件の被告人や国民一般が正しい裁判を受ける権利を防衛するためには、長尾信の名誉を毀損するビラを配布したり、同人を脅迫する葉書を出すこと以外に採るべき方法がなかつたとか、緊急已むを得ずそのような手段を採らなければならなかつた等というような事情は全く認められず、又右のような処置に出ることが健全な社会通念に照らし相当でないことも明らかである。従つてこの主張は採用しない。

第四、法律の適用

被告人隠岐尚一、同加藤正一及び同三輪晴雲の所為は、いずれも刑法第二百三十条第一項、罰金等臨時措置法第二条第三条に、被告人水谷謙治の所為は刑法第二百二十二条第一項、罰金等臨時措置法第二条第三条に各該当するから、各犯罪の態様、松川事件の無罪確定の事実、本件の審理に長期間を要した点等を考慮して、所定刑中いずれも懲役刑を選択した上その所定刑期範囲内で右各被告人を懲役四月に処し、刑法第二十五条第一項を各適用して、いずれも本裁判確定の日から一年間刑の執行を猶予し、訴訟費用についてはそれぞれ刑事訴訟法第百八十一条第一項本文を適用して、主文第三項掲記のとおり負担させる。

第五、被告人浅野晃盛の無罪理由。

同被告人に対する公訴事実は、「被告人は昭和二十六年十月十六日頃、名古屋市内において、『人殺し売国奴長尾信貴様はそれでも日本人か、人間の良心をネズミの糞の一かけらでも持合せたら即時裁判官を辞退しろ、愛国者松川諸君に加えた毒牙は遠からぬ将来に於て人民と正義の名に於て貴様に厳烈な審判が下されるであろうことを夢にも忘れるな』と記載した郵便葉書一枚を同市西志賀町六百二十五番地長尾信宛に送達之を翌十七日頃配達せしめ、以て同人の身体生命に危害を加うべき事を告知して同人を脅迫したものである。」というのである。

被告人浅野晃盛が起訴状記載通りの郵便葉書を長尾信に郵送したことは、同被告人の当公廷における供述、証人長尾信の証言及び領置にかかる郵便葉書(証第九号)により認められる。

脅迫罪は他人に害悪を加うべきことを通告することによつて成立するのであるが、本件の「遠からぬ将来において人民と正義の名に於て貴様に厳烈な審判が下されるであろう」との文言はその意味内容、甚だ漠然として具体的でないため、たとえ葉書の前段の文言と対照してみても、害悪を加えようとするものか否か不明であり、一歩を譲つて何等かの害悪を加えようとするものであるとしても、その何であるかは全く明らかでない。従つてこれでは人を畏怖させるに足る程度の害悪の通知とは認められない。尤もこの文言を敷衍し憶測を強めれば、いわゆる人民裁判によつて裁かれるであろうとの意味があるとの説を唱えるものがあるかも知れない。それでもこのような事項の通知が害悪の告知になるかは問題であるが、兎に角、昭和二十六年当時、近い将来において人民裁判が行われるような社会的変革が起ることが、一般的には勿論、国民の相当部分に予想されていたということは認められず、寧ろそのようには考えられていなかつたというべきであるから、かかる変革を前提とする人民裁判による審判を行うことを告知しても、具体的実現性のない事項の通知となるため、一般的に畏怖の念を生じさせる可能性はなく、まして判事である長尾信を畏怖させるに足るものとは認められない。そればかりでなく、厳烈な審判なるものを、被告人浅野晃盛自身が行うとのことは葉書の文面からは全く認められないばかりでなく、被告人以外の誰が行うのであるか、同被告人が何かの関係で誰かにこれを行わせるのか、又はこれを行う者に対して同被告人が影響を与え得るのであるかということが一切示されていない。さらに本件葉書には差出人たる同被告人の住所氏名が明記されているが、若し被告人に長尾信を脅迫する意思があつたならば、捜査官が捜査に着手すれば容易に検挙されるような自己の住所氏名を記載することはなかろうと考えるのが普通であつて(被告人水谷謙治は一高校生とのみ記載している)、このような記載をしたことは、同被告人に脅迫の意思がなかつたことの現われであると見ることもできる。

以上の諸点より被告人浅野晃盛の所為はいわゆる警告に類するものであつて、脅迫罪を構成しないと認めるから、刑事訴訟法第三百三十六条に則り無罪の言渡をする。

以上の理由により主文のとおり判決する。

(裁判長判事 井上正弘 判事 平谷新五 判事 中原守)

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